43.古代石洞・棚田(神田先生推測)

昭和63年12月1日発行の「ふるさと広島第15号に一貫田の水洞と棚田について説明されてる「川上雅之」氏は古代の水洞址は正式には「古代の水洞式棚田」で、日本と長く友好関係にあった百済が唐、新羅の連合軍に攻略され斉明六年(660)、百済は日本に救援を求める。同七年救援のため出征。しかし天智二年(663)八月、白村江の戦いで大敗し、百済は滅び多くの人が日本に亡命。報復を恐れて天智三年(664)に九州に防人と烽火台をおき、水城を築く。その後も日本国内に対外防備用の山城が多く築かれた。その一環として国難に備え農産物の増産のため、各地に水洞式棚田を百済の人を中心となって作られた。龍善寺寺報平成29年12月1日発行分より転載する。

 

 

この時代人々の租税の対象は稲だったが水は人々にとって命の次に大切なものでした。水を制御する棚田は高等技術を必要とする.稲田に水を引く灌漑用水として、人が通り抜けられる規模の『水洞」(スイドウ)が考案された。水洞は傾斜した耕地が暗渠で貫通し、用水と排水を繰り返す。それは耕作面積を失わず、水質、水温、水量を一定に保つことを可能にしている.そのあたりに立っていると、川もないのに水の流れる音がしている。』今、棚田はどこでも衰退の一途をたどっているが、棚田や水洞を築いた心意気はいつの時代も変わることはないと思う。今、身近な里山を見直す時、先祖たちの残した水洞は、物言わぬ教師として私たちを導いてくれる。

 

「環境造形研究所主宰小泉実」さん分転載。「2017年(平成29年)1月21日中国新聞より。一貫田の水洞と棚田(JAの対面

60㎝×50㎝×60㎝の穴
60㎝×50㎝×60㎝の穴
48㎝×57㎝×48㎝の穴
48㎝×57㎝×48㎝の穴
90㎝×55㎝×85㎝の穴
90㎝×55㎝×85㎝の穴