42.種田山頭火句碑

行乞行脚の俳人種田山頭火は、昭和8年(1933)9月19日に一貫田に一泊し、日記と俳句16句を記している。

【9月19日】日記

曇り、 小雨が降ってゐるが、引き留められたけど、出立する…………

午後は雨、合羽を着て歩いて、一貫田という片田舎に泊まった。宿は本業が豆腐屋、アルコールなしのヤッコが味わえる。…

今日の行程は、5里 所得は(銭三十銭、米4合) 御馳走は、(豆腐汁、素麺汁)ニ五中之上 前が魚屋だからアラがダシ、豆腐はお手のもの早くから寝た どしゃ降りの音も夢うつゝ

「俳句」

①朝がひろがる豆腐屋のラッパが あちらでもこちらでも(牛田大山澄太さん宅を出るときの句)

②やっと糸が通った針の感触

③時化さうな朝で こんなにも虫が死んでゐるすがた

④あさの土を歩いてゐるや鳥も

⑤旅は空を見つめるくせの 椋鳥が騒がしい

⑥また一人となり 秋ふかむみち

⑦この里のさみしさは 枯れてゐる稲の穂

⑧案山子向きあうてゐる ひさびさの雨

⑨案山子も私も草の葉も よい雨がふる

⑩明けるより 負子を負うて秋雨の野へ

⑪ひとりよりあるけば 山の水音よろし

⑫よい雨ふった 朝の挨拶もすずしく

⑬一歩ずつあらわれてくる 朝の山

⑭ぐっすりと寝た朝のやまが 秋の山々

⑮秋のやまへ まっしぐらな自動車で

⑯歩くほどに 山は はや萩もおしまい

「H27年小学校4年生国語教科書」東京書籍[9月20日]朝の句

○⑰「まことお彼岸入りの 彼岸花」令和1年10月に久保田邸売却につき当地から龍善寺境内に移設した。

 

山頭火の最大の謎は、43歳の時の転身だ。なぜ僧の出で立ちをして家々を訪ね、経を唱ええてお布施や米を分けてもらう行乞の旅に出たのか。「私は今、私の過去を一切清算しなければならなくなってゐるのである」(昭和5年(1930)9月14日付け。「行乞記」「無芸無能の私に出来ることは二つ、二つしかない。-歩くこと(自分の足で)作る事(自分の句を)私は流浪する外ないのである、詩人として」(昭和14年8月27日付け『其(ご)中(ちゅう)日記』清算しなければならない「過去」とは何なのか。どんな人生への転換を図ろうとしたのか。まずは、43歳までの人生を振り返ってみるとーーーーー

明治15年(1882)山口県西佐波令村(現在の防府市)の大地主の種田家に生まれ、正一と命名される。9歳の時、井戸に身投げした母の遺体を目撃。あちこちに妾を囲って自宅に帰らなかった父の行動が自死の原因とみられる。18歳で上京し、早稲田大学の前身、東京専門学校高等予科に入学し、3年後うつ病のため早大文学科を退学し帰郷。

 

種田家は酒造会社を買収。正一はサキノと結婚し、酒造業に従事。

 

自由律俳人の荻原井泉水(せいせんすい)に師事し、彼の主宰する『層雲』に投句開始。その頃から「燃え上がる火山」という意味の俳号「山頭火」を使うようになる。33歳の時には種田家が破産。山頭火は妻子と、俳句仲間がいる熊本市に逃げ、古書や額縁などを売る店『雅楽多』を開く。2年後、弟が岩国の山中で自死。36歳、妻子を放置して、友人を頼って上京し、一ツ橋図書館などに勤務するも、うつ病の為に退職する。大正12年(1923)には関東大震災に遭遇、憲兵に連行され,一時巣鴨刑務所に留置されたのちに、熊本市に帰る。42歳の時、泥酔して走行中の路面電車の前に立ち、急停車させる。乗客に取り囲まれた山頭火を、木庭徳治という人物が連れ出し、曹洞宗報恩寺の望月義庵和尚に預ける。出家得度し、座禅修行を積んだ山頭火は、廃寺になっていた植木町の味取観音堂瑞泉寺の堂守となり、ざっと1年後に行乞の旅に出たのだった。

〈山頭火全集〉春陽堂書店全11巻)所収の日記から。2021年3月28日(日曜日)日本経済新聞から引用

      1)「一貫田旧久保田邸宿泊の家」昭和8年(1933)9月19日: 

      2)この家は令和元年(2019)年9月に解体され、山頭火句碑は龍善寺の公孫樹の木の右側に移転された。

 

2019.5.29撮影旧久保田邸、この後この宿泊したクボタ邸は9月に売却の為上瀬野2-6-11の龍善寺境内「土方石碑前に移転した。