祭神は宇迦之魂神で、文化2年(1805)に神殿を造営、当時は小迫社と呼ばれていたが、いつから鴉森神社になったかは不明である。
地元では「稲荷社」と呼んでいる。
凸京山(とんきょうやま白金山)麓には産業の神、稲荷神社がある。
石の鳥居に「天保乙未秋八月吉日 野村正久建」と二柱を通して刻まれている。是は当時の角店(孫兵衛の商売)の隆盛を物語るもので、感謝と諸業の繁栄を祈って建立されたのであろう。
「野村家の基礎を築いた人は、野村孫平衛正言(まさとき幼名は太郎)である。承久三年(1221)六月承久の変が片づくと阿曾沼親綱は、世能荒山庄の地頭職になった。親綱は早速、家臣野村氏を代官として派遣したが、十月には早くも野村氏が非法な働きをしたと官使から訴えられている。この為阿曾沼氏は三男信綱、四男貞綱をつれて中野鳥籠城に下向し定着した。この二人が野村家の先祖と言われているが,一時、山城の国の野村に住んでいたので姓を野村にしたという。
三男信綱の後(子孫)の泰治は、秀吉の朝鮮の役で戦死し、幼児の弁之助【後の泰次】は、中野村で農民となった。四男貞綱の後(子孫)の淡路は、その子太郎と共に、文禄元年(1592)文禄の役で朝鮮に向かった。父淡路は戦死したが、太郎は大功を立てて凱旋して名誉の感状をうける。
慶長元年(1596)上瀬野村の寺分の坊(三戸保太郎氏の先祖)家に寓し、農民となった。別居して孫兵衛と改名し、屋苗を平と号した。
1≫野村孫平衛正言(以後孫兵衛を襲名)は、幼時より学問を好み、長ずるに及んで、周囲の広大な山林に着目し、是を利用し木炭を作り諸地方に販売した。「安芸の孫兵衛炭」と称されて名声を博し遠くは、大阪方面へも販売し,豪農商として名高くなり、人望もあり、近隣諸国にもその名が知られているという。その後「庄屋と」なるや、民生に心血を注いだため村民挙って敬慕した。寛永初期頃には、僧快存とともに伊福寺の再建に尽力、寛永十二年(1635)平山神社の神殿の改築,神輿の寄進、など村のため大いに尽くした。
⋆野村孫平衛の続き
慶安三年(1650)病死するや、村民痛惜に絶えず、盛大な葬儀を行ったという。御霊は今なお
寺分の旧宅近くの小高い丘の墓地に眠る。是により孫平衛正言の子孫は,代々庄屋を務め明治維新に至る。
庄屋になったと推測される子孫は(年次不明)次の通リである。
野村孫兵衛正言-佐太郎―?-正房―正信―正対―正良-正久―正孟―正定―正節
神社名 祭神 場所
① 根切神社 興津彦尊 久井原
② 大元神社 素盞嗚尊 久井原
③ 若宮社 聖徳皇 青木
④ 宮ノ谷神社 瀬織津姫命 清水
⑤ 稲荷神社 宇加乃魂神 一貫田
⑥ 大原神社 菅原道真 寺分
⑦ 河内神社 瀬織津姫命 荒谷