38.広島藩油御用所跡・水路跡

瀬野町一貫田  集落

国道2号線の上瀬野から阿戸町へ通じる県道分岐点付近が一貫田である。この分岐点から東へおよそ50mばかりの所に、江戸時代の燈油を製造していた油搾場跡がある。油は古くから燈火用として用いられ、すでに室町時代には 需要な商品となっていた。江戸時代に入ると燈油の需要は一層高まって、瀬野川町や、安芸郡海田町などの芸南地方は綿花、菜種等が広く栽培され、製油の原料は豊富でした。安永6年(1777)には、水車などによる製油施設を持つ油屋が,城下近辺だけでも三十軒以上あり、広島藩の製油はかなり盛んでした。しかし、地方の農村では『手作手絞り」の規模の製油が行われていた。宝永6年(1709) 割庄屋野村孫兵衛正房が油搾場を作り、油製造、販売を始めた。瀬野川から100m以上に及ぶ水路(幅59cm、深さ40cm)を造り、水路から6mの落差で(直径6.4m)水車を回し、44基の石臼で菜種や綿の実を砕いて、燈油を製造した。寛政10年(1798) 広島藩は野村孫平衛を油方頭取に任命し、公設の「油御用所」とした。広島城下から多くの馬が原料を運んできて、帰りには、油を積んで帰った。村民は、この仕事により生活が潤い、一貫田は人や馬で随分賑わった。

現在、建物はなく、水車跡は埋め立てられ水路や石垣が残っているのみである。種々の資料から①)動力は水車で6,4mの水車を架け、菜種や綿の実を砕く動力とした。②水車の水は瀬野川から100m以上の水路を(幅59㎝、深さ40cm )引き、水路から6mの落差で水車を回していた。③,砕種は四十四基の臼で綿や、菜種の実を砕き燈油を製造していた。今は、高さ2,7m長さ100mに及ぶ水路跡を残すのみとなった。石臼は、明治13~16年(1880~1885)龍善寺本堂が再建されたとき、主柱の礎石に利用されている。

 

(水路の概略図、、、瀬野川からの経緯)

 

燈油製造の、庄屋野村家は、安芸郡の割庄屋を延享元年≪1744≫上瀬野村孫兵衛(ア)明和三年(1766)、天明六年(1786)、寛政8年(1796)にも割庄屋を務め、文化9年(1812)に上瀬野村太右衛門(ク)が、孫兵衛に変わりなり、文化14年≪1817≫、文化14年(1817)文政二年(1819)にはまた、上瀬野村孫兵衛となった。これは相続で名前を継いだのか。文政12年〈1829〉、天保15年≪1844≫野村金右衛門が成っている。嘉永6年≪1853≫野村孫兵衛を相続か、安政二年≪1855≫孫兵衛、同4年(1857)野村孫平衛、万延元年≪1860≫野村孫平衛、となり約116年にわたり安芸郡の中で重要な地位をしめていた。当時割庄屋は庄屋などの村役人と代官の中間にあったもので、郡に数名置かれ、郡内の最も有力な百姓が任命された。安芸郡では、村々を口組、中組、上組、浦組の四グループに分け組合、割庄屋がそれを受け持った。「この村組は固定的なものではなく割庄屋の人数や出身地によって度々改変されている。安政の頃の村組は、口組(府中、温品、戸坂、新山、牛田、中山、矢賀、仁保島)中組は(中野、畑賀、奥海田、海田市、船越、矢野、坂,大屋、吉浦)上組(上瀬野、下瀬野、熊野,川角、焼山、押込、栃原、苗代、平谷)となっている。