30.大山鍛冶弐代目鍛冶場跡と墓所

二代重守の代には、衣食住に不便か、あるいは寒い処であったかで下大山に移ったと考えられる。墓地には五輪の塔は少なくても七基あったと考えられる。『芸藩通志』等には、全て「二百五十年間五世・・・・」と記されているが、それにしては墓の数が多すぎるし、5世にしては年代の間が開きすぎる。地蔵墓は大山峠と同じ様なもので、八基あるが妻のものであろうか、二代重守貞治の年代より文禄まで、その間の歴史をこの墓は見守ってきている。こけ石五十基位、全部合わせると六十数基になる。 昔は二ヶ所にあった。現在地は分家墓所と言われ、本家墓所は、山陽鉄道工事の時、墓地の土を取って現在地に移動し合塔したと聞く。当時もう少し丁寧に扱い、五輪の姿が完全に残されていたなら、或いは墓からもう少し違った歴史ができていたかも知れない、誠に残念である。「」鍛冶場跡は」二代目墓所から50mぐらい先に二代目から八代目までが操業した鍛冶場跡に着く。現在田圃だが以前発掘した所、フイゴの筒、堆積した鉱滓(カナクソ)が出た。井戸跡もあり後世に伝えるため石碑が建てられた.「伝、中世の刀工大山鍛冶跡。二代重守大山峠より移住。守重、則安,康正宗重,永正宗重、永禄宗重、天正宗重、文禄三年まで約二百数十年、七代作刀ス。」、、平成17年≪2005≫二月吉日.東 寒山(省三)上瀬野町中原とある。大山鍛冶の里「大山鍛冶の二代目以降は大山峠の屋敷から下大山に居を構えたと云われる。

 街道右側に一群の墓石があり、「先祖 大山鍛冶市左衛門之碑」と刻まれた石碑が建ってる。東京国立博物館に展示されている、広島県重要文化財に指定されている宗重の名刀(天年間1573~92)も、この地で鍛造されたとられる。 

 

弐代目の鍛冶場跡から採掘された                                      鉱滓。「田んぼの下より採掘」    
弐代目の鍛冶場跡から採掘された                                      鉱滓。「田んぼの下より採掘」