瀬野馬子唄(雲助ぶし)
続日本後期、承和五年(838)五月九日条に次のような記載がある。「安芸國は山路が険阻な上に送迎が多く、その労苦は他国に倍するものである。その為公廨(くかい)稲(とう)を減らして三万一千二百束を出挙(すいこ)し、その利息を駅子の食料に充ててほしい」、、、、山路の険阻さは驛使にとっても障害になったが、その負担は荷物運搬や随行を命じざれる駅子にかかってきたようである。大山峠は、旧山陽道の難所であったらしく宿場通いの馬子がつれずれに唄ったと伝えられる歌詞に、「こわや眠たや大山峠よ安芸の四日市なけりゃよい廨(かい)」
⋆これに西志和入野の風流人は、
「安芸の四日市あってもよいがよ 大山峠がなけりゃよい」と粋な反歌をのこしている。
当時の人々の面影を懐古せざるをえない。
次のような馬子唄が残されていた。
1)瀬野の三里とエー 大山の峠とヨー 大須畷がなけりゃエー
2)瀬野の馬さはエー 金つき馬でヨー 夜(ばん)になっても精をだす
3)瀬野の大山はエー 一石五斗のヨー 米を振り分け馬の背に
当時を想像させるのに十分な唄である。
瀬野馬子歌保存会が立てた看板がある。 馬の背に振り分け荷をつけ、険しい大山峠を越えたのであろう。米なら一石か一石五斗くらい負わせたという。馬はまだ「きんつき」(去勢をしていない馬)で、よく跳ね、扱いがむつかしかったと云う。 右の看板は平成30年(2018)7月6日西日本豪雨災害で流失。代官おろし碑も流失。(米150kg。~225kgを背負う)
災害後、令和3年に一般社団法人中国建設弘済会の助成金を受領し案内看板の復元をさせてもらった。R3.11.10。
場所:広島市安芸区上瀬野町清山
大山峠の麓に「餅干し岩」がある。昔、追剥(山賊)がこの付近に巣くっていて、村の家から搗きたての餅を盗んできてはこの岩の上で干したからこの名がある。餅干し岩はこの大岩を割って商売の道具に使おうと岩を割った不届きなものがおり今は残念ながら二つに割れて往時の姿が見えない。地元の古老は、山陽鉄道が工事を始めたときバラスにするために割ってみたがバラスに適さず利用されないまま放置された。この岩の近
くに弥仙谷川がありその中ほどに「から臼」という岩があるとのこと。これは追剥が盗んだ玄米を白米にする石臼である。昔は臼之事を「カラス」と云った=唐臼