何時の時代か郡境に関所が設けられていたらしく、原小倉越の三差路付近にその跡と思しい礎石が草にうずもれて残っており、関平の地名もここからきているのか。後の寺家の医師野坂三益ノ漢詩にも古関の語が見える.代官おろしというところは、駕籠で巡遊する代官も、ここでは下りたと言うところから生まれたと言い急な坂になっている。
ここは西方からの登り口で、険しい峠道をひかえて、代官様でもどなたでもここからは駕籠を降りて歩いていく所であった2号線の標高は178mでこの大山峠入り口から大山峠までは約1,1kmで大山峠の標高は337mであり標高差は159mあり如何に急な坂であったかがわかる。
*代官おろし碑「R4.1.25.」
*「油単(ゆたん)」浮世草子・沖津白波(1702)四
「よしある人のぬけ参りとみへて爪喘清げなる振袖、下女に油単(ゆたん)脇懸(わいかけ)をさせ」
説明①単衣の布や紙などに油をしみこませたもの。湿気を防ぐために,唐(から)櫃(びつ)・長持・等の調度や、槍。笛などの器具の覆いにしたもの。また、灯明(とうみょう)台(だい)の敷物などにももちいられた。
②油紙や布で作った風呂敷。多く、旅行用具として衣類を包んだり、風雪を防いだり、防寒具の代用としたりした。
⋆浮世草子/好色万金丹(1694)四<髪は剃らねど、身は風雲の僧より軽く(略)油単一つを菌(しとね)にして、やまにも登るさとにもふる」
③箪笥(たんす)や長持ちなどに覆いかぶせる布。近世以降多く用いられた。ふつう、木綿で作られ萌葱(もえぎ)色(いろ)、浅葱色、紺色などに家紋を入れたり、唐草、松竹梅などの模様を染め出したりした。
「油単」とは、器物にかけて,湿気や汚れを防ぐ布製の覆い。もとは雨に濡れるのを防ぐために,単衣(ひとえ)の布の覆いに油を引いて製したものであったため、この名で呼ばれている。
唐(から)櫃(ひつ)、長持、たんすなどにかけられる油をひいてないものも油単と言われている。また、輿(こし)や牛車(ぎっしゃ)などにもちられ、雨水を防ぐ雨皮(あまかわ)といわれる覆いも油単に類するものである。
「瀬野大山の油単掛け」という意味:
〈和名抄(わみょうしょう)〉承平年間(931~938)源順編纂」に、「油引きたる衣なるべし」とある。又、厨膳具にも「油単と字の如く油引きたる単衣(ひとえ)なるべし、」とあり、油単とは、湿気や汚れを防ぐ布製の覆いのことで、元は、雨に濡れるのを防ぐため,単衣の布の覆いに油を引いて作ったものであり。旅行用具として衣類を包んだり、風雪を防いだり、防寒具の代用としたりしたもので。
大山峠入り口は標高約170mで、頂上は337mであり、標高差167mもありこの急こう配の峠道を旅人は通ったわけであるが、此の草木の生い茂った山道を上るのに雨も、雪も。霧道があったであろうにこの時、油単をかけて登ったので,「瀬野大山の油単掛け」と言われたのではないか。