9.初代大山鍛冶場跡と住居跡

「芸藩通志」には、大山刀鍛冶について「上瀬野村、大山に在り。古刀銘盡を按に、建武の頃,安芸に名鍛匠あり、未之左安吉弟守より、大山庄に移り、その後重守、守重、則安、光久、応仁の頃まで五世、此の地に在って刀を造りしという」とある。大山刀鍛冶が刀造りをしていた建武から天正にかけての時代は、大山峠その付近一帯は上瀬野村の領地であった。随って当村と宗吉村との境界は今の旧上瀬野村と旧宗吉村との郡村境よりははるか東にあった。「上瀬野村誌」には「大山鍛冶宅跡は賀茂郡宗吉村大山に在ったと記されているがこの地域は元上瀬野村の領地なりしが、当村は疎林森林頗(すこぶる)広大なるにより、この地に薪炭するもの稀なるに乗じて、何時の頃にか他村に侵入され、伐木などされても咎めに行く能はざりしため、遂に川上村領になりたるもののごとし」とあるように,左氏が代々刀造りをしていた当時の鍛冶屋敷は、当村の大山である。故に大山鍛冶の造った刀は瀬野の大山で造った、あるいは大山鍛冶と云えば上瀬野の大山と言われるのは当然である。

 

つづいて、大山鍛冶の伝説を記す、筑前の刀鍛冶左守安は、備前の國に刀の製法の研究に行ったが意の如く研究できない事が分かり帰国することにした。帰途大山峠道を通って峠についてみると、コンコンと湧き出る清水が湧き出ていた、此処で一休みしていると周りは見渡す限りの松林(アカマツ林)鍛冶には、赤松の炭「松炭と」、清水、重要な原料の砂鉄、が付近のからこう山から出ることが分かりここで刀鍛冶をすることとした。からこうやまは、現在砂鉄を掘った凹地があり、精錬した谷はタタラ谷と称せられて、安芸バイパスの進路にあたり埋められるが現在も鉱滓(かなくそ)が残っている。初代守安がこの地で刀鍛冶を初めて、二代目から当村下大山之〈市道329号線横の田に鍛冶屋を設置し、文禄頃まで二百五十年余り刀を造り幾多の名刀を世に出した。また、鍛冶場跡の田からは1mぐらい掘ると鉄くずが出る。守安の打った刀は、平山神社に奉納されたがまわりまわって東京上野博物館にあるという。現在は建重要文化財「」藝洲大山住宗重作 天正十一年八月吉日」之銘があり、ながさ70,1cm、剃りcmの刀が三次市に、「芸州大山住仁宗重作天正十三年八月の銘のある名刀も保存されている。 さらに西に約300m下ると右側に「大山鍛冶之の石碑が建つ。傍らに「伝大山刀鍛冶墓」の説明版があり、ここに大山刀鍛冶の鍛冶場があったことを伝える。右側約30mぐらい狭い道を進むと小高いところに崩れかけて「初代大山刀鍛冶の墓」と伝えられる幾度か修復された五輪塔がある。筑前博多の刀工の流れを汲む大山刀鍛冶の初代守安(建武年間(1334~38)の墓とも伝えられるが真偽の程は定かでない。街道の左の藪の中を約30m登ると小高いところに五輪の塔や墓石の残片が散乱している。「川上村史によると」「大山鍛冶の祖は筑前博多の刀工左の一派の守安という人で建武年間≪1334~38≫年にここに土着したのが初め」といわれている。昭和20年ごろまではその鍛冶場跡があったらしい。がS20年9月17日の枕崎台風の水害で流されてしまった。復、ここには「関の清水」と呼ばれる名水も湧き出ていてこれが刀鍛冶として土着した理由の一つになったとも伝えられているが、今はその跡も見つからない。大山鍛冶は八代続いたがこの場所は初代のみが使用し、二代目から下大山に移り住んだと言われている。 なお、二代目以降は山を下りて下大山部落に定着した。

H30.7.6 西日本豪雨災害の被災箇所(大山鍛冶場跡付近)
H30.7.6 西日本豪雨災害の被災箇所(大山鍛冶場跡付近)