49.瀬野機関区跡

明治5年≪1872≫9月12日新橋~横浜間に鉄道が開通した。日本の鉄道の誕生である。明治21年(1888)民営の山陽鉄道が設立され神戸~下関の幹線敷設が着手された。日清戦争が始まる直前の明治27年≪1894≫6月10日糸崎(現三原)~広島間が開通し、本郷、西条、瀬野、海田市、広島の5驛が開業した。そして、瀬野に機関車駐泊所が開設された。山陽本線上り列車が瀬野~八本松(通称瀬野八)間10.6kmの急こう配(22.6/1000)を45分かけて上がるためには列車後部に補助機関車(補機という)。を連結し押し上げねばならなかった。明治39年≪1906≫3月日本国有鉄道法が公布され山陽鉄道は「国鉄」となった。山陽本線は列車本数が増加するとともに補機も増え、大正12年(1923)4月には瀬野機関区駐泊所は広島機関区瀬野分庫と改称され、単線であったが複線化された。

昭和21年(1946)4月瀬野機関区に昇格し「後押し専用機関区」として全国に知られるようになった。昭和39年≪1964≫7月広島以東の旅客・貨物列車がすべて電化され、補機も電気機関車となった。昭和62年≪1987≫3月には機関区も廃止となり6月30日「さようなら蒸気機関車」の行事が行われ100年の歴史を終えた。明治27年以降瀬野は後押し機関栄えた。瀬野駅が海抜53.8m、八車の拠点駅として本松駅が265.9mでその間10.6㎞で216m上がる。その為八本松駅は山陽本線で一番標高の高い駅だ。鉄道従事者は昭和25には職員数252名(瀬野驛51名、瀬野保線区35名、瀬野機関区166名)、D-52-15台が配置され町民のほとんどの人が鉄道関係に何らかの形で従事し「瀬野は鉄道村」と言われたよき時代を送った