40.間の宿

上瀬野町一貫田  集落

 享和2年(1802) 長崎から帰途当村を通った尾張商人菱屋平七は、その『筑紫紀行』に、「……落合村茶屋あり、十四五丁行けば上瀬野村、人家所々にあり、茶屋、宿屋もあれど間の宿なり、二十丁行けば一かん田、人家十四五軒あり、半里行けば細川あり、土橋より渡れば川向うは久井原、人家十軒茶屋あり」寛保2年(1742) の『行程記』には「此酒屋孫左衛門所卸小休、左右茶店多し、此孫左衛門先祖者東川向ニ庄屋孫兵衛という者有、徳人ニ而、先年当初江出店したる故所名を出見世といふ名附り」と記す。後、出見世の地名は消え、この酒屋が出見世という家になり最近まで同地にあった。熊野に通じる道路脇平山神社の続きへ蔵屋敷を描き「平田孫兵衛と言う者この庄屋」と明記している。平田は屋号となり、後世野村を名乗り子孫は他出して「ヒラ」の地名が現地に残っている。