22.吉田松陰 詩詠の地

明治維新の多くの指導者を育てた吉田松陰はここ瀬野の地を四回も往来している。一度目は嘉永4年(1851)3月参勤交代の長州藩主の列に加わっていたが、後の三度は驚くことに罪人としての往来であった。最後の四度目は,安政6年(1859)5月29日、安政の大獄により萩の野山獄舎から江戸の伝馬町獄舎への護送であったが、この地で次の通り詠んだ。

 

 

 

          瀬野山路水相従    瀬能の山路 水相従い

        到處鼕々聞石淙    到る處鼕々(とうとう)石淙を聞く

        田色遥青入挽夏    田色遥かに青く晩夏に入る

        樹陰清絶想寒冬    樹陰清絶寒冬を想う

        歳如奔馬連催我    歳は奔馬の如く連なり我を催す

        松以幡龍不改容    松は幡龍に似て容を改めず

        陪駕前年過此地    駕籠に陪して前年此の地を過ぐ

        低回有涙向詩傭    低回涙あり詩に向かって滽し

 

此の5ケ月後10月27日惜しくも30歳の若さで刑死した。

当時の複雑な心境瀬野の風景と世相は彼の目にどう映っていたであろうか。

 

「案内版は瀬野川郷土史会奥田さん設置」