6.瀬野大山の謂れ(芸藩通志)

山の總名隣たるや、大山にして、上に一尖を秀づ、麓は府中、温品、畑賀などの数                     

*呉座々宇山(くれざくりかえしうやま)」郡の北にあり、一に後初左うとも呼、いづれも名義詳ならず、或云、古記に、御山荘山戸あり、此山、故府に近ければ、昔國司の山荘,此にあるを以て、山の總名隣たるや、大山にして、上に一尖を秀づ、麓は府中、温品、畑賀などの数村に横り、高宮郡馬木村に及べ里、絶頂に登れば、東は豊田郡竹林寺山、西南は周防,伊豫、北は石見の地をも望むべし、實に郡の主やまたり、

*瀬野大山:郡の東境にあり、上瀬野村、及び賀茂郡寺家、宗吉,両原数村に跨る。

   *「勢能大山」上瀬野村に在り、万葉集、小田事、勢能山歌に。

    眞木葉乃(まきのはの) 之奈(しな)布勢(ふせ)能山(のやま) 之奴婆受而(しのばずて) 吾(われ)越去者(こえゆけば)、木葉(このは)知(ち)利家(りけ)武(ん)  按に,せの山は、紀伊國にも在れど,清輔、奥義抄に,せの山は、安藝国と記せり、また延喜式駅馬に,大山駅あり、此地なるべし、また、所傳の古歌三首あり、

    おぼつかな あまの御川の ながれかやせのという名をやまにきくには、

    花さかりおなし夕かあきの國 せのゝ大峯とやいろのやま、

    横川の瀬野の大山みなかみに たちくるなみや 風のまにまに

    第一歌ヲ、業平のうたといひ傳ふれど,おぼつかなし、後二首は,重行という人のよみしといえど、考ふるところなし、又、源貞世、山をすぐる紀行和歌あり、地景に翼かな減り、此山の容ち、駿河の宇都山の面影あり樋減り、(登也(とや)色山(いろやま))古歌前にあり、大山の内と見ゆれど、いずれの峰をいふか、いまだ詳ならず、

1)飛び郷「とびごう」親村と地続きでなく、他村内へ飛び離れた土地を飛び地または飛び郷という。この形成には①村境の川が洪水の為川瀬を変えて土地に出入りが生じ、かって甲村の土地が乙村の地続きになった場合とか、②新田開発の場合などが一般的には考えられているようである。飛び郷の住民は山林の利用をはじめ日常生活に多くの不便を忍んできたが、1880年(明治13年)地籍編製規則が布達され、関係村の協議によってその属する村へ合併せしめる等の整理が行われた。(東広島郷土史研究会編集東広島の歴史辞典より掲載)